神秘的なオーラの美輪明宏さんですが、調査してみるとその『生い立ちが壮絶』であることが判明しました!
美輪明宏さんは、どのような家庭環境で育ったのでしょうか?
そこでここでは、美輪明宏さんの生い立ちにまつわる
- 幼少期に母と死別
- 複雑な家族構成
- 異母兄弟10人
- 家族を支えた秘話
について詳しく紹介します。
ぜひ、最後までお付き合いくださいね~
美輪明宏の生い立ちが壮絶!
美輪明宏さんの本名は丸山明宏さんといい、1935年5月15日長崎県長崎市で誕生します。
美輪明宏さんの実家は長崎市内にあり、丸山遊郭と言われていた遊郭街の近くで、両親は『世界』という名前のカフェーや料亭を経営。
この経営はとても成功していて、かなり裕福な環境で育ったそうです。
当時20人近くが務めていたカフェで、三輪さんは従業員の女性からとても可愛がられていたとか。
しかし、1941年になるとイギリスやアメリカ合衆国が戦争体制に。
父親の判断によってカフェは閉店。その後、父親は『金融業』に転業しました。
1945年、長崎市内で戦争を経験した美輪明宏さん。戦争を経験してから、その人生も壮絶なものとなりました。
美輪明宏は音楽学校を中退!
美輪明宏さんは10代の頃から、かなり整った顔立ち。目鼻立ちもはっきしていて、ハーフと間違えられたほど!
その美貌のため、10代の時にはボーイフレンドには不自由しなかったと話していました。
「幼い頃より遊女の人生をかいま見てきただけに、色恋に関して早熟だったことは本人も後年に語っていますが、中学1年生で迎えた初体験の相手は先輩の男子だったといいます」
記事引用:asagei plus
中学3年の時には、かなり多くの男性と関係を持っていたことを告白。
男性関係に不自由ない生活をしていたとき、美輪明宏さんは歌手を目指し15歳で上京します。
そして、歌手という夢を目指し、現在の国立音楽大学付属高校へ通うように。
しかし実家に帰省した際、父親が生活が苦しくなった親戚に対し『見捨てるような態度をとったこと』に激怒した美輪さんは、父親と大喧嘩。
喧嘩をきっかけに父親とは絶縁となり、仕送りも止められてしまいます。
生活苦となった美輪明宏さんは、音楽学校を中退することになりました。
進駐軍キャンプで歌手のバイト!
高校中退後、生活費を稼ぐために進駐軍のキャンプ廻りをして、歌を披露しながらお金を稼いだという美輪明宏さん。
新宿駅で寝泊りしていた時期もあるといい、かなり苦労していたことがわかりますね。
1952年当時17歳だった美輪明宏さんは、ゲイバーやバーテンダーなどのアルバイトを始めました。
そんな時、銀座7丁目にあるシャンソン喫茶『銀巴里』で、ボーイ兼歌手募集の張り紙広告を見て応募することに。
歌手として『銀巴里』と契約を交わした美輪さんは、国籍や年齢、性別不詳として売り出すと徐々に人気になりました!
美輪明宏は幼少期に母と死別していた
美輪明宏さんの父親の名前は、丸山作一さんで、母親の名前は、丸山ヌメさんといいます。
美輪明宏さんの母親は、かつて大阪の日赤病院で看護婦として働き、婦長を務めていたそうです。
しかし、母親の丸山ヌメさんは美輪明宏さんが2歳のときに他界。
その後、父親の後妻として新しい母親が自宅に来ました。
美輪明宏さんにとっての2番目の母は、とてもオシャレな女性。
長崎の実家の近所にある、食料品店の娘として誕生した2番目の母。とても優しい女性で、当時幼かった美輪明宏さんをとても可愛がってくれたそうです。
美輪明宏は、新しい母親の愛情を受け育ったのですが、2番目の母親も戦争により他界。
その後、美輪明宏さんの父親は3回目の結婚をするも、3番目の母親が失踪するという生い立ちを持っています。
度重なる不幸によって、美輪明宏さんは辛い日々を送ることとなりました。
美輪明宏【異母兄弟10人】支えた家族秘話が感動
美輪明宏さんの実家は元々裕福でしたが、戦争によって一変。母親が違うことも重なり、大変な生活を送ることとなりました。
元々は5人兄弟の次男として育った美輪さんでしたが…。
父親の3回の結婚によって異母兄弟が増え、最終的には自身を含めた『10人兄弟』という家族構成。
1人の兄を除いては、全て母親が違う複雑な家庭で育ちます。
しかし美輪明宏さんは、異母兄弟を献身的に世話していたそう。
そんな美輪明宏さんは、上京し学校を中退するも歌手として注目される存在になりました。
実家や異母兄弟のことを思い、一生懸命働くようになった美輪明宏さんでしたが…。
中性的な顔立ちゆえに、顔が売れれば売れるほど色眼鏡で見られることもあったそうです。
時代が時代だっただけに、同性愛者という存在も当時は全くなかったとか。
ジェンダーなどの言葉もなく、男性女性とはっきり分かれている時代だったといいます。
歌を披露すると「男の腐ったみたいなゲイボーイ」と、心無い言葉で罵倒されることも…。
しかし美輪さんは、世間から浴びせられるバッシングも正面から受け止め、逃げ隠れせず歌っていました。
葛藤を抱えながらも、アルバイトで歌手として日当を稼ぐ日々。そんな苦労時代を経て、ようやく1957年にブレイク。
フランスのシャンソン『メケ・メケ』のカバーが大ヒット。
美輪明宏さんの名前が大きく広まることとなりました。
同性愛をカミングアウして干される?
せっかくブレイクした美輪明宏さんですが、自身が同性愛者であることをカミングアウトし、人気は急落したそうです。
再び不遇な時代を迎えてしまった美輪さん。当時を振り返り「人様の情けに生かされた」と語っています。
周囲のサポートを受けながら、逆風にもめげずに作詞・作曲を始めた美輪さんは、1965年に『ヨイトマケの唄』をステージで初披露。
ヨイトマケの唄は、三輪さん自身が作詞作曲した曲。翌年レコード化された同曲が大ヒットし、再び人気に火が着いたそうです。
不遇な時代や暴言を吐かれる時代もあったものの、信念を持って歌手活動を続けてきた美輪明宏さん。
腹違いの兄弟を養うという責任感が、人気に繋がったと言えるのではないでしょうか。
美輪明宏の生い立ち【まとめ】
神秘的なオーラの美輪明宏さんですが、調査してみるとその生い立ちが壮絶であることが判明しました!
複雑な家庭環境ながらも、弟たちを思って家族を支えていた美輪明宏さん。
当時は男女についてはっきりしていた時代なので、とても苦労されたかと思います。
歌手として華々しくデビューしたように見えますが、その裏では壮絶な経験をされていたことが発覚しました。
最後までお読みいただきありがとうございます。