神秘的なオーラの美輪明宏さんですが、調査してみるとその生い立ちが壮絶であることが判明しました!
美輪明宏さんはどのような家庭環境で育ったのでしょうか。
また、家族構成も複雑で当時実家を支えたという噂も!
この記事では、美輪明宏さんの生い立ちや実家を支えたエピソードについてまとめています。
美輪明宏の生い立ちについて

長崎市内で5人兄弟の次男として誕生した美輪明宏さん。
美輪明宏さんの実家は長崎市内にあり、丸山遊郭と言われていた遊郭街の近くで、両親は『世界』という名前のカフェーや料亭を経営。
この経営はとても成功していてかなり豊かな環境で育ちました。
当時、20人近く働いていたカフェで働いていた女性にも、とても可愛がられていたそうです。
しかし、1941年になるとイギリスやアメリカ合衆国が戦争体制に。

父親の判断によってカフェを閉店する決断をし、金融業に転業しました。
1945年、長崎市内で美輪明宏さんは戦争を経験。
戦争を経験してから、その人生も壮絶なものとなりました。
美輪明宏の学生時代のエピソード

美輪明宏さんは10代の時はかなり整った顔立ち。
目鼻立ちもはっきしていて、ハーフと間違えられたほど!
その美貌のため、10代の時にはボーイフレンドには不自由しなかったと話していました。
「幼い頃より遊女の人生をかいま見てきただけに、色恋に関して早熟だったことは本人も後年に語っていますが、中学1年生で迎えた初体験の相手は先輩の男子だったといいます」
記事引用:asagei plus
中学3年の時には、かなり多くの男性と関係を持っていたことを告白。
男性関係に不自由ない生活をしていたとき、美輪明宏さんは歌手を目指し15歳で上京しました。
歌手という夢を目指し、現在の国立音楽大学付属高校に通うようになりました。

しかし、生活が苦しくなった親戚に対して見捨てるような態度をとった美輪明宏さんに対し、父親が大激怒。
大喧嘩へ発展し、父親とは絶縁となりました。
絶縁となったため父親からの仕送りが止まってしまい、美輪明宏さんは音楽学校を中退。
活費を稼ぐために進駐軍のキャンプ廻りをして歌を披露してお金を稼いでいました。
新宿駅で寝泊りしていた時期もあると話していて、かなり苦労して過ごされていたことがわかりますね。

1952年、当時17歳だった美輪明宏さんは、ゲイバーやバーテンダーなどのアルバイトを始めます。
そんな時、銀座7丁目にあるシャンソン喫茶『銀巴里』で、ボーイ兼歌手募集の張り紙広告を見て応募することに。
歌手として『銀巴里』と契約を交わし、国籍や年齢、性別不詳として売り出すと徐々に人気になりました!
美輪明宏は幼少期に母と死別していた

美輪明宏さんの父親の名前は、丸山作一さん。
美輪明宏さんの母親の名前は、丸山ヌメさんと言います。
美輪明宏さんの母親は、かつて大阪の日赤病院で看護婦として働き、婦長を務めていました。
しかし、母親の丸山ヌメさんは美輪明宏さんが2歳のときに他界。

その後、父親の後妻として新しい母親が自宅に来ました。
美輪明宏さんの、2番目の母親はとてもオシャレな女性。
長崎の実家の近所にある、食料品店の娘として誕生。
とても優しい女性で当時幼かった美輪明宏さんをとても可愛がってくれたそうです。
美輪明宏は、新しい母親の愛情を受け育ちました。
しかし、美輪明宏さんの2番目の母親も、戦争により他界。
その後、美輪明宏さんの父親は再び再婚するも、3番目の母親が失踪。
度重なる不幸によって、美輪明宏さんは辛い日々を送ることとなりました。
美輪明宏が異父兄弟10人支えた家族秘話が感動

美輪明宏さんの実家は、元々裕福でしたが戦争によって一変。
母親が違うことも重なり、大変な生活を送ることとなりました。
しかし、美輪明宏さんは血の繋がりがない兄弟のことを一生懸命面倒を見るように。
美輪明宏さんは、自身を含めて10人兄弟。
1人の兄を除いては、全て母親が違う複雑な家族構成で育ちました。
美輪明宏さんは上京し学校を中退するも、歌手として注目される存在になりました!

実家のことを思い、一生懸命働くようになった美輪明宏さん。
若いころの美輪明宏さんは、かなり中性的な顔立ち。
顔が売れれば売れるほど、時代が時代だっただけに色眼鏡で見られることも多くありました。
また、同性愛者という存在も当時は全くなかった時代。
ジェンダーなどの言葉もなく、男性女性とはっきり分かれている時代でした。

なかには、「男の腐ったみたいなゲイボーイ」と心無い言葉で罵倒されることも多かったものの、美輪明宏さんは歌手活動を続けるように。
そんな意見もすべて正面から受け止め、逃げ隠れせず歌っていました。
葛藤も抱えながらも、アルバイトで歌手として稼ぐ生活を送っていた美輪明宏さん。
そんなブレイク前夜の苦労時代を経て、ようやく1957年にブレイク。

フランスのシャンソンの『メケ・メケ』をカバーしてヒット!
美輪明宏さんの名前が大きく広まることとなりました。
そして、1965年に『ヨイトマケの唄』で人気に。
不遇な時代や暴言を吐かれる時代もあったものの、美輪明宏さんは信念を持って歌手活動を継続。
弟たちのことを思い、歌手活動を続けていたことが人気と繋がったと言えるのではないでしょうか。
まとめ
神秘的なオーラの美輪明宏さんですが、調査してみるとその生い立ちが壮絶であることが判明しました!
複雑な家庭環境ながらも、弟たちを思って家族を支えていた美輪明宏さん。
当時は男女についてはっきりしていた時代なので、とても苦労されたかと思います。
歌手として華々しくデビューしたように見えますが、その裏では壮絶な経験をされていたことが発覚しました。
最後までお読みいただきありがとうございます。