2020年10月1日 爆笑問題の太田光さんが新潮社を訴え、初出廷しました。
問題となったのは、週刊新潮が報じた太田光さんの日大芸術学部への裏口入学。
そこに、太田光さんが敬愛していた「父親・三郎さんが大きく関与していた」というのです。
父・三郎さんが太田光さん裏口入学のため、暴力団関係者にペコペコ頭を下げていたとは思えないと反論する太田光さん。
それほどまでに尊敬し、憧れた父・三郎さんとはどんな人だったのでしょうか。
太田光の父親・三郎のプロフィール
太田光さんの父である三郎さんは、1928年(昭和3年)7人きょうだいの三男として生まれます。
20歳になると落語家・春風亭柳好さんの弟子入りを希望したり、映画監督を目指してみたり、なかなかやりたいことが定まりません。
また、父親の三郎さんは『小説家』を目指した時期もあったそうで、自分が書いた小説をあの太宰治さんに読んでもらったこともあるそうです。
太田光の父親・三郎は建築家で叙々苑会長と友達?
25歳のときに父・三郎さんは得意の絵を生かして、内装デザインの仕事に就きます。
最初は銀座赤羽にある喫茶「にんじん」の内装を手掛けました。
しかしその後、仕事が途切れてしまったため、三郎さんはそのまま「にんじん」でバーテンダーをすることに。
そこへアルバイトとしてやってきたのが、のちに三郎さんの妻となる瑠智子(るちこ)さんでした。
昭和32年に三郎さんと瑠智子さんは結婚。
三郎さんは瑠智子さんのためにも、生活を安定させようと内装デザイン事務所を立ち上げます。
昭和40年5月、第一子となる太田光さんが誕生。
こちらは父親三郎さんと、幼少期の太田光さんの写真です。
昭和43年三郎さん40歳のときに、新たな内装デザイン事務所「三光社」を設立した三郎さんは、最初の仕事として東京・千代田区にある蕎麦屋の内装を手掛けました。
さらに三郎さんは、新たなサービスも思いつきます。
それが…
内装を手掛けたお店の看板を三郎さんが書く、というものでした。
「高名な書道家に依頼すれば費用がかさむ」と、三郎さんは仕事終わりに書道教室へ通い夢中で練習したそうです。
店側のニーズに細かく答えようとする三郎さんの評判は、次第に広がっていきました。
そして昭和50年、三郎さんの元へ「三郎さんが内装を手掛けた店に紹介された」という一人の男性がやってきます。
その人こそ、高級焼肉チェーン「叙々苑」の創業者新井泰道さんでした。
三郎さんは叙々苑の内装も手掛けるかたわら、叙々苑1号店の看板文字も担当します。
いまではすっかりおなじみとなった「叙々苑」の文字、実は太田光さんの父親・三郎さんの直筆だったんですね。
有名焼肉チェーン店の看板を手掛けるくらいなのだから、太田光さんの父親・三郎さんと叙々苑の会長・新井泰道さんは友達関係だったのでしょうか?
以前、テレビで太田光さんがこう答えていました。
「ウチの親父は建築家で、叙々苑の店舗の設計をやってたんです。そのときに、『叙々苑』の字を書いたんです。でも、叙々苑の社長とケンカしているので、あまりそのことは放送では言えない」
引用:https://news.livedoor.com/article/detail/17364061/
明確な関係性こそ不明ですが、叙々苑の会長相手に喧嘩ができてしまう三郎さん。
お互いの感情をぶつけ合うほど距離が近かったということですね。
太田光のファミリーヒストリー内容が衝撃!
2019年11月25日、NHK総合で太田光さんのルーツを辿る番組『ファミリーヒストリー「太田光〜亡き父が残した書 “爆笑問題とは何ぞや”〜」』が放送されました。
番組内では太田光さんのことだけでなく、父・三郎さんや祖父・勘三郎さんの生い立ちまで紹介されており、太田光さんも知らないことがたくさんあったそうです。
その中でも、特に衝撃的だったエピソードをいくつかご紹介しますね。
太田光さんの父親・三郎さんと妻・瑠智子さんの新居は、友人との共同住宅だった。
昭和32年に結婚した三郎さんと妻・瑠智子さん。
その5年後に新居を構えるのですが、じつは新居建設時に三郎さんは友人たちと共同で資金を集めていました。
その結果、1階は友人宅に。2階を三郎さんと瑠智子さんのお家として使うことになったそうです。
太田光さん誕生記念にマグカップ100セット!
昭和40年5月 太田家に待望の男児・光さんが誕生しました。
喜んだ三郎さんと瑠智子さんは、太田光さんの手形と足型をプリントしたマグカップを作ったそうです。
その数なんと、100セット!
「迷惑だったろうね 気持ち悪いもんね!
爆笑問題の身内って聞いた3人のおじさんも完全に戸惑ってたねww」
引用:https://blog.goo.ne.jp/ska-me-crazy2006/e/43a3938394d81cc3e68fa46683e32146
さすがの太田光さんも番組内で大ウケでした。
三郎さんの会社「三光社」の社名は、父と息子の名前から1文字ずつ。
昭和43年に構えた内装デザイン事務所「三光社」
社名の由来は、三郎さんと息子・光さんの名前から1文字ずつとってつけました。
三郎さんは「光」という字が大好きで、太田光さんが生まれたときも
そして、会社を設立したときも大好きな漢字を当てはめたそうです。
いつも息子を気にかけていた父親・三郎さんの姿
ある日、太田光さんが漫才コンテストに出場したとき、
父・三郎さんは故郷の静岡で法事の真っ最中でした。
にもかかわらず、「今日は息子がNHKに出るからテレビを観たいんだ」と法事を中断してその場にいた全員で太田光さんたち爆笑問題の漫才を見守ったそうです。
また、内装業を引退したあとも書道は通い続け、太田光さんの著書『カラス』の表紙文字を書いたのは有名な話ですね。
インタビューで太田光さんは父親・三郎さんにいて、このように語っています。
とにかく話す内容がおもしろかった。たとえば、落語や小説や美術の話など、親父の表現に対する造詣の深さや会話のおもしろさは、今の俺の仕事にもかなり影響を与えていると思う
引用:https://www.news-postseven.com/archives/20120405_99967.html?DETAIL
思えば、父親・三郎さんも若い頃は映画監督や小説家を目指した時期がありました。
そして息子である太田光さんもまた、映画監督を務めたり、『カラス』や『マボロシの鳥』『違和感』など数多くの著書を出版しています。
憧れの父親・三郎さんの背中をみて育った太田光さんらしいですね。
太田光の父親【まとめ】
太田光さんの父親・三郎さんについてくわしくみてきました。
やりたいことが定まらず、いろんな職種に手を出した青年期。
内装業を始めてからは顧客のニーズにこたえるため、自ら書道を学んで看板文字まで手掛ける努力家な姿。
そんな姿勢が評価され、ついにはあの高級焼肉チェーン「叙々苑」の看板も任されることになりました。
そしていつも息子のことを応援していた父親としての三郎さん。
父と息子の間には深い絆が結ばれているように感じました。
最後までお読みいただきありがとうございました。