2019年1月2日放送の『しゃべくり007』に瀬戸内寂聴さんが出演します。
瀬戸内寂聴さんは小説家として多数の書籍を出版。尼僧として人々の人生相談に乗るなど人格者として知られています。瀬戸内寂聴さんの若い頃は壮絶なものでした。
若い頃に不倫をして娘を捨てたというのは有名な話!
かなり波乱万丈な人生を歩んできたようです。そこで今回は、瀬戸内寂聴さんの若い頃の話や不倫して娘と別れるに至った経緯をご紹介します。
瀬戸内寂聴 3度の不倫人生
瀬戸内寂聴のプロフィール
- 通称:瀬戸内寂聴(せとうちじゃくちょう)
- 本名:瀬戸内晴美(せとうち はるみ)
- 生年月日:1922年5月15日生まれ
- 出身地:徳島県徳島市
- 大学:東京女子大学卒業
- 仕事:小説家、天台宗の尼僧
瀬戸内寂聴の幼い頃
瀬戸内寂聴さんは仏壇店の次女として徳島県徳島市で生まれます。もともとの姓は「三谷」でしたが、父が従祖母である瀬戸内いとと養子縁組したことで「瀬戸内」に変わりました。
瀬戸内寂聴は大学時代にお見合い結婚
瀬戸内寂聴さんは、1943年21歳のときに東京女子大学在学中に見合い結婚し翌年に娘の迪子(みちこ)さんが生まれます。このときの女の子が後に捨てられた娘さんです。
子供が生まれてすぐ夫の仕事の関係で2年ほど北京に住むことに。そして1946年に帰国しました。
1度目の不倫:夫の教え子と密会を重ねる
戦争も終結し家族三人で仲良く暮らすのかと思いきや瀬戸内寂聴さん(24歳)は旦那の教え子(21歳)と不倫関係になりました。
瀬戸内寂聴さんは、好きになるとどうしても夢中になってしまうタイプだったようです。罪悪感を感じていたそうで、夫へは自分から不倫をしていることを告白。
旦那と3歳の娘を残して家を飛び出し京都で暮らすようになります。しかし不倫相手の男性の方が瀬戸内寂聴さんを受け止めることが出来なかったようです。
瀬戸内寂聴さんは結局、独り身となりました。
このときの恋愛模様は、後に自伝小説「いずこより」(瀬戸内晴海)で綴られています。
2度目の不倫:年上妻子持ちの小説家と恋仲に
1950年(28歳のとき)には離婚が成立し、東京で小説家を目指して「三谷晴美」のペンネームで活動を始めます。
独り身となった瀬戸内寂聴さんは、自立を目指して出版社へ就職。
そこで出会った小説家・小杉慎吾と恋に落ちました。小杉慎吾は既婚者ですでに子供もいたようですが、小説家同士の二人の仲は深まっていきます。
瀬戸内寂聴さんは、1956年(34歳のとき)に「痛い靴」を発表し、「女子大生・曲愛玲」で新潮同人雑誌賞を受賞します。しかし、卑猥な小説だと罵倒され「子宮作家」のレッテルを貼られました。
3度目の不倫:再び夫の教え子と再開
そんな時に、お別れした元不倫相手が12年ぶりに瀬戸内寂聴に会いにきます。
昔とは違い生気のない彼を見て、瀬戸内寂聴さんは放っておくことが出来ず再び関係がスタートしてしまいました。二股、つまり三角関係です。
しかし瀬戸内寂聴さんは、良心の呵責に耐えかねて自ら幕引きをします。二股の関係に疲れ、51歳で出家しました。
瀬戸内寂聴さんは、このときの恋愛模様を赤裸々に書いた「夏の終り」で1963年(41歳のとき)に女流文学賞を受賞しています。瀬戸内寂聴さんの小説家人生は自身の不倫によって叶えられたのでした。
瀬戸内寂聴 尼層としての出家人生
瀬戸内寂聴さんは、はじめは修道女を目指していたそうです。
しかし、「旦那と3歳の娘を捨てて不倫相手と住んでいたから」という理由で教会から拒絶されます。
そこで出家を目指すのですが同様の理由で多くの寺院からも拒絶されました。
ようやく、1973年に天台宗・中尊寺の今春聴大僧正の元で出家をすることに。このときの法名が「寂聴」でした。
しかし、出家をしたあとも男性と付き合ったり肉食を続けていたそうですよ(笑)
瀬戸内寂聴 別れた娘とのその後は
瀬戸内寂聴さんは、どうして娘を置き去りにしたのかについて
「当時は仕事もなく経済的に不可能でした」
と話しているそうです。
戦後復興期で肉体労働の多い時代でしたから女性が社会に出て働くことは、相当難しかったのでしょうね。
現在は当時3歳だった迪子(みちこ)さんと復縁しているそうで、少しずつ関係修復をしているのでしょう。
まとめ
瀬戸内寂聴さんの壮絶な人生を若い頃の写真や画像とともにお届けしました。
今は不倫ネタは日常茶飯事ですが、当時の日本は今よりもっとタブー感が強かったでしょうし、瀬戸内寂聴さんは女性が生きにくかった男性優位の時代を逞しく生き抜いてこられたんだろうと思います。
かなりお年も召しておられますが、体調には気をつけて、今後も健やかにご活躍して欲しいですね。