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滝沢秀明の父親的存在・ジャニー喜多川社長とは?経歴と家系図を調査!



滝沢秀明さんが「父親的な存在だった」と語ったジャニー喜多川社長。

ジャニー喜多川社長とはどんな経歴の持ち主なのでしょうか。

調べてみると早くに母親を失い、過酷な幼少期を過ごしたようです。





ジャニー喜多川氏の家系図とプロフィール

ジャニー喜多川

ジャニー 喜多川(出典:Wikipedia)
生誕 ジョン・ヒロム・キタガワ(John Hiromu Kitagawa)
漢字表記:喜多川 擴(きたがわ ひろむ)

1931年10月23日(87歳)アメリカ合衆国
カリフォルニア州ロサンゼルス市
住居  日本
民族 日本人(大和民族)
出身校 ロサンゼルス・シティー・カレッジ (LACC)卒業
上智大学国際部(現・国際教養学部)卒業
職業 実業家・芸能プロモーター・音楽プロデューサー
著名な実績 ギネス世界記録
「最も多くのコンサートをプロデュースした人物」
「最も多くのナンバーワン・シングルをプロデュースした人物」
父:喜多川 諦道
ジャニー喜多川 家系図

父親は日本仏教・高野山真言宗米国別院の僧侶(第3代主監)。なんとお坊さんの家系です。父親は、プロ野球チーム「ゴールドスター(1947年に「金星スターズ」に改称)」のマネージャーを務めるなどしていたそうです。

姉はメリー喜多川さん、兄はNASAでアポロの設計もしていた科学者だったそうですが1980年代に50代半ばで死去しています。

姉メリーさんの娘がジュリー喜多川さん、ジャニー喜多川さんの姪っ子にあたります。

ジャニー喜多川 家系図 顔画像

ジャニー喜多川氏の幼少期

ロサンゼルスで生まれるも強制収容

    

1931年生まれ。ジャニー喜多川さんは諦道の次男としてアメリカ・ロサンゼルスに生まれました。太平洋戦争中のことで、アメリカに強制収容されていたそうです。

2歳で日本に帰還し母親を失う

1933年(2歳のとき)日本に帰還します。喜多川一家は家族で日本へ渡航しますが、大阪市で生活した間もなくして母親が死去してしまいます。

和歌山へ疎開し和歌山大空襲を経験

さらに第二次世界大戦が勃発すると、大阪は危険だということで、子供たちだけで和歌山県東牟婁郡那智勝浦町に疎開しました。そして第二次世界大戦末期には和歌山大空襲を経験します。

ずいぶんと過酷な幼少期を過ごしたようですね。

ジャニー喜多川氏の10代

終戦後にアメリカの高校・大学へ進学。

1945年(14歳のとき)に終戦を迎えます。

日本の敗戦後、1947年(16歳のとき)に子供たちだけでロサンゼルスに帰国し、現地の高校に入学しました。

高校時代にはロサンゼルスの「アーニー・パイル・シアター」にて、ミュージックメイカーのアシスタントとして、アルバイトを経験します。

ロサンゼルスの高校を卒業後は、姉と同じロサンゼルス・シティー・カレッジ進学しました。

美空ひばりとの出会い。

1950年(19歳のとき)、美空ひばりのロサンゼルス公演の会場が、父親の勤務先だった真宗大谷派東本願寺ロサンゼルス別院が会場となったことをきっかけに、ジャニー喜多川氏はステージマネージメント全体を担当することに。

美空ひばりの父親・川田さんやご本人のひばりさんとも親しく交流するようになったそうです。このことが、後に日本芸能界への進出のきっかけとなりました。

ジャニー喜多川氏の20代

戦災孤児に英語教育するため日本へ。

1952年(21歳のとき)に再来日。理由は、アメリカ大使館に陸軍犯罪捜査局 (USACIDC, CID) の情報員(通訳の助手)として勤務するためでした。

アメリカ軍関係の仕事の一環として、当時勃発していた朝鮮戦争による戦災孤児に英語を教授するため、なんと、日本でわずか11ヶ月で朝鮮語を習得します。1年2ヶ月間に渡って子供たちに英語を教えました。

20代で戦災孤児のお世話をするなど青少年の支援に力を注いでいたようですね。

上智大学へ進学。バンドを結成し芸能界へ。

また、アメリカ大使館軍事顧問団に勤務する傍ら上智大学国際部(現在の国際教養学部の前進)に進学し、上智大学を卒業します。

大学在学中の1955年(24歳のとき)、バンドを結成し芸能界へ参入しました。それ以降は日本に永住します。

ジャニー喜多川氏の30代

ジャニーズ野球チームを結成

1960年代初頭(30歳のころ)、ジャニー喜多川氏は自分の居住していた東京都渋谷区・代々木の占領アメリカ軍宿舎「ワシントンハイツ」にて野球コーチを務めていたそうです。

この野球チームは近所の少年たち約30名で構成されていました。チーム名は、ご本人のニックネーム「ジャニー (Johnny)」からとって「ジャニーズ」。

このチームのメンバーには、浜田光夫・小畑やすし・設楽幸嗣など芸能関係者もおり、応援団にはタレント・松島トモ子の姿も。芸能界とのつながりが強かったチームだったようです。

ジャニーズ事務所の設立

ジャニーズ事務所設立のきっかけは、映画「ウェストサイドストーリー」です。

ある日、野球チームのメンバーの中から渋谷区立代々木中学校の生徒4名を選抜し映画館に連れて行きました。

そこで鑑賞した映画『ウェストサイドストーリー』に一同感動し、エンターテインメント事業を興業することを決意。

1962年4月(ジャニー喜多川氏31歳のとき)、自身が結成させた野球チームのメンバーである4名の少年により最初のグループであるジャニーズ(通称・初代ジャニーズ)を結成します。同年6月にはジャニーズ事務所を創業しました。

ジャニーズ事務所の同族経営が色濃くなっていく

姉のメリーさんは、1950年代から東京都新宿区で「スポット」という名のカウンターバーを経営していましたが、ジャニーズ事務所を創業するとバーは廃業。

ジャニーズ事務所の経理を担当するようになりました。

また、バーの客だった東京新聞記者(後に作家)の藤島泰輔さんとの子供を身ごもります。藤島さんは当時既婚者で、朋子さんという妻がいたのですが、後に離婚。

1966年(ジュリー喜多川氏が34歳のころ)、この内縁関係で藤島ジュリー景子さん(今のジャニーズ事務所の副社長)が生まれました。

ジャニーズ事務所の現社長はジュリー喜多川さんですが、現副社長は、姉のメリーさんと、姪子のジュリー景子さんで固められています。

同性愛者の噂も立ち始める

実は、1960年代(30代)から、ジャニー喜多川氏が同性愛者(ゲイ、少年愛、ペドフィリア)なのではないか、という噂が流れ始めます。

事務所に所属する男性タレントに対して猥褻な行為を行っているとの噂は、この頃から散発的に報道されていきました。

ジャニー喜多川氏の40代以降

ジャニーズ事務所設立時は、先行する大手プロダクションに圧倒され伸び悩んでいましたが、その後、事務所は急成長を遂げていきます。

1980年代に黎明期が始まる

1980年代(ジュリー喜多川が50代)に突入してから、ジャニーズ事務所は先行する大手プロダクション群を凌駕し始めます。

フォーリーブス・郷ひろみ・たのきんトリオ・シブがき隊・少年隊・光GENJI等が活躍。

1990年代にはSMAPが世の中へ

1990年代以降はSMAPをマルチタレント型なアイドルとして発展させました。

2000年代から2010年代

現在のTOKIO・V6・KinKi Kids・嵐・Kis-My-Ft2.ジャニーズWESTなどの所属タレントの活躍の場を広げ、男性アイドルの礎を築きました。

追記:

2019年7月9日、ジャニー喜多川さん(87歳)がくも膜下出血のため亡くなったと報じられました。

 

同族経営ならではの難しさ。滝沢秀明さんは社長後継者に?

ジャニー喜多川氏と滝沢秀明の関係

ジャニー喜多川さんは、幼なくして母親を失い、戦争で大空襲を経験するなど、幼少期は苦労の多い時期を過ごしていたようですね。

滝沢秀明さんも、若くして両親が離婚し母子家庭で貧しい幼少期を過ごしたそうです。

両親が早くに離婚して母子家庭だった滝沢秀明さんはジャニー喜多川さんを父親のように思っていたようです。

滝沢はジャニー氏について「小さい頃に学ばなきゃいけないことを1から教えてくれた人。どこかで“オヤジ”っていうのはこういう存在なのかな」と幼い頃に家を出た父親と別れ、初めて“父”という存在を知った。

以来、滝沢はジャニー氏から演出のことから生活の規律のことまでさまざまなことを学んだ。思春期になると、時には自らの怒りの矛先をジャニー氏に向けることもあったが、いつも優しく受け止めてくれたという。 (引用元:ORICON NEWS

ジャニー喜多川さんと滝沢秀明さんは、若い頃に苦労の多い時期を過ごした点でも共通します。

自分たちの後に続く若い青少年の未来を切り開いていきたいという思いも重ねやすいのかもしれません。

滝沢秀明さんにジャニー社長の意思を継いでジャニーズJrの育成に力を注ぎたいとの思いがあるのも納得です。

ジャニー社長は事務所を立ち上げてきた実力をもち、その経営手腕に対しては尊敬もあるでしょう。

同性愛者として不穏な噂や過去を持つジャニー喜多川さんなので、賛否両論ありそうですが、、。

同族経営ゆえの難しさ。タッキーは社長にはなりえない。

滝沢秀明さんは芸能界引退後もジャニーズ事務所の裏方として働くそうですね。

滝沢秀明さんが事務所の後継者となり得るのかについてですが、そこには同族経営ならではの難しさがありそうです。

社長のジャニー喜多川氏は、ジュリーさんの経営者としての力を認めています。

滝沢秀明さんも、自分に経営はできないと明言しているそう。

ジャニー喜多川社長が、一番大切なジャニーズ事務所をゴタゴタさせるような遺言書を書くことは考えにくいでしょう。

万万一、ジャニー喜多川社長が滝沢秀明を社長にしたいと思っても、実子でも養子でもなく身内でもない滝沢秀明さんにジャニー喜多川氏の株式を譲渡すると遺言したとすると、モメるのは必須です。

ジャニーズ事務所は「株式非公開」の同族経営の会社です。

役員会が滝沢秀明さんを社長にすることを認めるとは考えにくいです。

ジャニーズJr.の育成や舞台のプロデュースを、高齢で病気のジャニーさんがゆくゆくは滝沢さんに任せたいという意図はあると思います。

「ジャニーズの後継者は滝沢秀明」などというキャッチコピーで意図的に混乱させたのは週刊文春です。

ジャニーズ事務所に取材一つしていない週刊文春の勝手に作ったキャッチコピーが、一人歩きしているだけという見方が現実的なようです。

追記:

滝沢秀明さんが、ジャニーズ事務所の完全子会社「ジャニーズアイランド」の社長に就任したと報じられました。

ジャニーズアイランドはジャニーズ事務所の100%支配下に置かれた完全子会社です。

やはり滝沢さん自身がジャニーズ事務所の実権を握ることはありません。

あくまで雇われ社長として、後世の育成に励むようです。

滝沢秀明さんが独立する可能性はある

すぐの話にはならないでしょうが、滝沢秀明さんがジャニーズ事務所でプロデュースの経験を積み、ゆくゆくは独立して事務所を立ち上げる可能性は残っていると思います。

裏方としての経験がない滝沢秀明さんが、今独立しても失敗する可能性は高いでしょう。

ただ、元SMAPメンバーが「新しい地図」を立ち上げるなど、先輩たちの背中を見て何かしら学んでいるとは思います。

それに、まだ30代で若いですから、これからの努力で経験を積めば、今は無理と思っている「経営」にも挑戦する可能性はあるでしょう。

まとめ

ジャニー喜多川社長のプロフィール(家系図や経歴)や滝沢秀明さんとの関係、そしてジャニーズ事務所の社長候補なのか調査しました。

週刊誌報道が独り歩きしているようですが、滝沢秀明さんの志は疑う余地はありませんし、Jrの育成に力を注いで欲しいですね。

最後までお読みいただきありがとうございました。